豐葦原

明治天皇御製 世はいかに開けゆくとも古(いにしへ)の國のおきては違へざらなむ

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明治憲法に対する誤解が解ける動画

大日本帝国憲法を顧みる

「大日本帝国憲法とは?」より↓
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=173585






大日本帝国憲法(明治憲法)は、明治22年(1889年)2月11日(紀元節:神武天皇御即位の日)に発布された。

大日本帝国憲法は「欽定」(きんてい)憲法である。

「欽定」とは、民定でも官定でもない官民の総意を歴史の連続性によってオーソライズ(正当と認める、権威を与える)する制定のあり方であった。
 
これは、天皇が一方的に国民に押し付けたものではない。

政府も『これは天皇の名において発布されるから決して権力者の勝手によって内容を捻じ曲げてはいけない。そして、天皇の名において公布されるものであれば国民に広く歓迎されるものでなければならない』としていた。

そのために、各方面から民権活動家や民権結社などから、様々な憲法の試案が出されていた。憲法草案が各立場から出されていた。それら一つ一つの内容を慎重に吟味し、その意図を十分汲み取った上で憲法の条文は考えられていった。

これは単純な民定憲法のように、国民が権力と対決し、あるいは、君主の権力を制約するために作られた憲法ではない。また、政府が自分たちの政権を維持するために民衆に押し付けたものでもなかった。

官民をあげて、まさに天皇の名において、その長い長い建国の歴史に恥じない憲法を作るということがこの「欽定」に込められた意味である。

ヨーロッパに見られる近代憲法制定の歴史の背景には、王権(国王の権力)と民権(人民の権力)が対決し、いかにして、人民の権力を伸ばし、そして、国王の権力を制約していくか、そういう発想があった。

ところが、日本の明治憲法は、明治維新によって言わば天皇の権威が確立したその時に憲法によって天皇の大権に一定のルールを認めた。それが日本の歴史の展開であった。

天皇の権威が最も高まった時代に、むしろ、近代憲法で民衆の最大限の権利を認める憲法が作られた。これは注目すべき点である。

そのような明治の欽定憲法に対し今の憲法(日本国憲法)はどうだったであろうか。

日本国憲法の場合、形式面(手続き面)では欽定であるが、前文では、民定を謡っている矛盾がある。そして、実態は被占領下での強制である。

それでは、明治憲法の有名な条文を少しだけ具体的にみていこう。

第一条について

第一条の【大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス】というのは、独裁君主の規定なのか?

。これは日本の伝統的な君主たる天皇が国民全体の利益のために、この国を統治すべきことを定めた国体上の規定である。

統治ス」には、当初「しらす」という古語を用いることが井上毀の案としてあったそうだ。この「しらす」の反対語は「うしはく」という。この「うしはく」は、「うしとして身につける」、「あるじとして、これは俺様のもの」だという意味がある。「しらす」はその「うしはく」とは反対の意味であるから、つまり、公共的な統治を意味した。しかし、近代憲法に古語を用いるのは相応しくないということで「統治ス」としたのである。

つまり、これは天皇が統治権を握っている握っていないという近代的な概念ではなく、日本の天皇の伝統的なあり方を表現した規定に過ぎない。したがって、第1条は「国体」にかかわる規定であったのである。

第三条について

第三条の【天皇ハ神聖二シテ侵スベカラズ】は天皇を神格化する規定か?

。当時のヨーロッパの君主国の憲法に普通に見られた君主の法的無答責を定めた規定である。

法的無答責」とは、法律上責任を問われないということである。このような、国家元首としての君主は法的な責任を問われないという規定は各国に当然のようにあった

それでは、おもな君主国で憲法に「神聖不可侵」または「不可侵」と規定した国々を古い順に紹介しよう。

スウェーデン 第3条 (1809年)
ノルウェー 第5条 (1814年)
オランダ 第54条 (1815年「不可侵」と規定)
ポルトガル 第72条 (1826年)
ベルギー 第63条 (1831年「不可侵」と規定)
イタリア 第4条 (1848年)
ハンガリー 第1条 (1848年)
デンマーク 第12条 (1849年)
プロシア 第43条 (1850年)
オーストリア 第5-1条 (1867年)
スペイン 第48条 (1876年)
日本 第3条 (1889年)
ユーゴスラビア 第55条 (1921年)

これだけの国々が国家元首である君主の規定に「神聖不可侵」または「不可侵」と規定しているのである。

法律の素人が「神聖にして侵すべからず」と聞くと、まるで天皇を絶対視して少しでも批判的な言動をすると処刑でもされてしまうのではないかというような印象を受けてしまう。それに乗っかって戦後明治憲法の否定する立場から「天皇を現神人(あらかみひと)として扱った」「天皇にひれ伏すための条文だ」というような曲解がなされた。曲解にもとづく非難・攻撃が行われてきた。それは全くデタラメである。

ヨーロッパの立憲君主国の普通の規定当時の常識として当然のように採用しただけに過ぎない。採用しないのは、むしろ、不自然であった。

第四条について

第四条の【天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権を総攬(そうらん)シ此ノ憲法ノ条規二依リ此ヲ行フ】の意味は?
 
第四条は、第一条に言う「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とは性格の違う条文である。

では、どう違うかと言うと、
 
①近代的な意味での統治権(主権)は国家に属すこと。
②その統治権は立法・行政・司法の三権に分立され、それを元首(国家の最高機関)たる天皇が束ねられること。
③しかも統治権の行使については、すべて憲法の規定にもとづくこと。
 
つまり、第一条のような近代化以降や近代化以前にかかわらず、日本が日本である以上、日本の根幹にかかわる「国体」を定めた条文とは違い、第四条は「政体」上の規定である。

その第四条によると、政体上、主権は国家に属し、天皇はその最高機関とされている。

そこで、当時「天皇機関説」と「天皇主体説」という2つの説による論争があった。機関説と唱えた美濃部達吉博士と、主体説を唱えた上杉慎吉博士との学問上の対立があったが、この論争は結果的には美濃部博士の方が勝っている。公権解釈としても、この機関説に立っていた。そして、昭和天皇ご自身も「機関説のどこが悪いのだ」という意味の発言をしておられた。

したがって、近代憲法における近代国家としての政体は天皇を国家の最高機関と位置づけていたことが分かる。

ところが、第一条はそういった機関説を超えた天皇の伝統的なあり方、つまり、天皇の存在様式を超えて続くあり方を規定したものが第一条であった。

したがって、明治の憲法は、全体で機関説でおおいつくされているのではなく、第一条という国体にかかわる規定も一方でしっかしとあった。ここに機関説と主体説の論争における欠陥部分があったのである。

では、統治権の行使をめぐる憲法の規定はどのように明記され、実際はどうなっていたのであろうか。

立法権については、第五条に「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以て立法権ヲ行フ」と明記されている。つまり、「帝国議会ノ協賛」なくして天皇の独断で立法権を行使できないルールになっていた。

「協賛をもってこれを行う」という表現だが、実際は議会が同意を与えないと天皇単独で立法権を行使することはできなかった。したがって、議会が立法権を実質握っていたということである。

行政権については、第五十二条(※正しくは第五十五条)に「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責二任ズ。凡(すべ)テ法律勅令其他国務に関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とあった。

つまり、「国務大臣」の「輔弼」なしに天皇単独で行政権は行使できず、「国務二関ル詔勅」もその「副署」がなければ法的効力を認められなかった。
 
副署」のある有名な詔書に、あの8月15日に国民に発せられた「終戦の詔書」がある。その詔書には、昭和20年8月14日付けで昭和天皇のお名前である「裕仁」という御名と御璽(ハンコ)が捺され、そのあとに続いて、内閣総理大臣鈴木貫太郎をはじめとする各国務大臣の副署がずらっと並んでいる。それが全て整って、終戦の詔書は法的な効力を持った。

逆に、明治23年10月30日に下された「教育勅語」には、明治天皇のお名前である「睦仁(むつひと)」という御璽が終戦の詔書と同じく捺されたが、当時の各国務大臣の副署は一切ない。つまり、これは明治天皇のお考えを述べられただけであって、法的に効力はないということである。教育は、道徳や国民の内面にかかわることなので、これは法律的に強制するにはなじまないから、あえて国務大臣の副署を添えていないのであった。

司法権については、第七条に「司法権ハ天皇ノ名二於テ法律二依リ裁判所之ヲ行フ」とあった。つまり、司法権は裁判所が「天皇ノ名二於テ」行使するものとされた。
 
立法権・行政権は、それぞれ議会の協賛あるいは国務大臣の輔弼によって行い、司法権の場合は、裁判所が天皇の名において行った、つまり、主体そのものが裁判所になっていている。

こうした仕組み(輔弼制)を前提に天皇の法的無答責(第三条)が保障されていたのである。
したがって、天皇が法的責任を追及されないのは、実体面においては帝国議会・国務大臣がそれぞれサポートして、それらの責任のもとに行われるからであった。つまり、立法権の責任は帝国議会に、行政権の責任は各国務大臣に、司法権の責任は裁判所に、あったからである。

第十一条について

第十一条の【天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス】との規定も、法意としては統帥行為に国務大臣(陸軍大臣・海軍大臣)の輔弼を不要とするものではなかった。

これは、政府当局としては、軍人が民間の政治運動(自由民権運動など)にコミット(関わり合う)することを恐れ、一方、民間側としてはあまり政府に兵権を握られることを恐れ、結果として双方が軍の政治的中立的化を求めたことによる。

「天皇が統帥しておられる」という原則を立てておけば、政府の私兵として行政権の尖兵(せんぺい)として自由民権運動の弾圧その他に使われることはないであろうし、逆に、政府の側からすれば、民権運動や政治運動に軍が付和雷同して政権を動揺させる脅威を与えるとうことも防げる。

戦後、この第十一条は大変評判の悪い規定であるがその背景にはこのような事情があったのである。

近代国家として兵権の統一が不可欠となれば、その頂点に国家全体の利益とその歴史的連続性を体現する天皇が位置することになるのは、ごく自然のなりゆきであった。

これがその後悪い働きをしてしまうのは、「軍部大臣現役武官制」という仕組みが採用されたからであった。この制度は、陸軍・海軍それぞれの大臣は現役の武官でなければ任官されないという仕組みであるが、こういった制度が追加的に加わってしまったがために、軍部がこれを利用し、「大臣を送り込まないぞ」と政府に圧力をかけ様々な政治的発言をした。

したがって、軍部の暴走などは憲法の仕組みそのものが悪かったのではなかった。

そして現在、日本の今の憲法は大変重要な曲がり角に来ている。この際に、現憲法の矛盾や欠陥、そして、制定過程の問題点とともに、これまで日本人が自ら生みだしてきた憲法の歴史というもの、そして、その前提となる歩みというものに、日本人は目を向けていきたいものである。




【関連】 

戦前の日本は民主主義じゃなかった?!
http://takato112.blog80.fc2.com/blog-entry-204.html

「憲法はまだか?」日本国憲法の成立過程
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=131354
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=131542

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