豐葦原

明治天皇御製 世はいかに開けゆくとも古(いにしへ)の國のおきては違へざらなむ

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護

Author:護
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眞正護憲論(新無效論)解説
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「國體護持總論」 HTML版
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簡單に覺えられる歷史的假名遣ひ
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【修身】 忠と孝 

 『尋常小學修身書 兒童用 巻六 』 (昭和十四年發行
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278050

  第三  忠

後醍醐天皇が北條高時をお討ちにならうとして、忠義の志ある武士をお召しになつた時、楠木正成(くすのきまさしげ)は、直ちに笠置(かさぎ)の行在所(あんざいしよ)へ馳せ參じました。正成は河内の人で、智略にすぐれた武將です。北條氏の勢に恐れてお味方申し上げる人も少かつた折ですから、天皇は大そうお喜びになり、正成を御側近く召されて、「高時を討つて、早く天下を太平にせよ。」と仰せつけられました。正成は、勅(みことのり)を有難くお受けして、

「賊軍がいかに強くても、はかりごとを以て討てば勝てぬことはないと存じます。合戰の習、萬一こちらが敗れるやうなことがありましても、正成一人生き殘つてゐるとお聞きでございましたら、必ず聖運は開けるものと思し召し下さいませ。」

と力強く申し上げて、御前を退きました。

正成は河内に歸ると、すぐ赤坂の城を固め、五百人ばかりの小勢を以て、眞先に勤皇の旗をひるがへしました。さうして天皇をこゝへお迎へ申し上げようとしてゐるうちに、笠置は落ち、天皇は隠岐へ遷幸(せんかう)あそばされました。これを傳へ聞いた正成は、いよ/\大事の場合と思つて、雲霞(うんか)の如き賊軍を引受けて戰ひました。兵糧がなくなつたので、城を燒き身をかくしたこともありましたが、間もなく勢をとりもどし、千早の城で樣々のはかりごとをめぐらして、僅かな兵力で賊の大軍を苦しめました。

かやうに正成が、目に餘る大軍を恐れず、たゞ一人忠義の旗をひるがへして屈しなかつたので、諸國の武士にもこれに應じて勤皇の軍を起す者が次第に多くなり、とう/\高時は打滅されてしまひました。

天皇が隠岐から京都へおかへりになる時、正成は兵を引連れて兵庫までお出迎へ申し上げました。天皇は正成を召させられて、親しく其の忠義をおほめになりました。正成は「強敵を破ることが出來ましたのも、ひとへに陛下の御稜威(みいつ)によるのでございます。」とお答へ申し上げました。天皇は正成を前驅(ぜんく)として、めでたく京都におはいりになりました。

間もなく足利尊氏が反(そむ)きました。さうして一度は官軍に打拂はれて九州へ逃げましたが、再び大軍を率ゐて攻上りました。正成は、しばらく賊の勢をさけ、其の衰へるのを待つて一氣に討滅さうといふはかりごとを立てましたが、朝議は進んで討てといふことにきまりました。そこで正成は、勅のまに/\京都を立ち、部下七百騎を以て賊軍を兵庫の湊川(みなとがは)に迎へ討ち、勇ましく戰ひました。さうして弟正季(まさすゑ)と七生報國をちかつて、壯烈な討死にをしました。



  第四  孝

正成は、勅を奉じて兵庫におもむく時、これを最後の戰と覺悟して、途中櫻井の驛で我が子正行(まさつら)に向かひ、

「汝はすでに十一歳になつた。父の言ふことをよく聞け。此の度の合戰は、天下の安危のわかれるところ、汝の顔を見るのもこれが最後であらうと思ふ。汝はあくまで父の志をついで、きつと大君の御爲に忠義を盡くして奉れ。これが第一の孝行であるぞ。」

とねんごろにさとし、天皇から賜はつた菊水の短刀を授けて、河内へ歸らせました。

正行は家に歸つてから、毎日、父の安否を氣づかつてゐましたが、間もなく父の討死の知らせが來ました。覺悟をしてゐたこととはいへ、餘りの悲しさに堪へかねて、正行はそつと一間にはいり、父のかたみの短刀で腹かき切らうとしました。さき程から我が子の樣子に氣をつけてゐた母は、此の有樣を見て、走り寄り、正行の腕をしつかと押さへて、

「そなたは幼くても、父上の子ならば、よく考へて見よ。父上がそなたを河内におかへしになつたのは、父上に代つて朝敵を滅し、大御心を安じ奉るためではなかつたか。其の御遺言を聞きわけて母にも話してくれたのに、もうそれを忘れたか。それで、どうして父上の志をついで忠義を盡すことが出來ませうぞ。」

と涙を流して戒めました。正行は母の言葉に深く感動しました。それからは、父の遺言と母の敎訓とを堅く守つて、一日も忠義の心を失はず、遊ぶ時にも賊を討つまねをしてゐました。

正行は、やがて後村上天皇にお仕へ申し、度々の合戰に賊軍を打破り、勤皇の諸將の間にあつて、あつぱれ父の名を恥づかしめませんでした。

尊氏は正行を恐れ、大軍をさし向けて攻めさせました。正行は勝敗を一戰に決しようと思ひ、弟正時を始め一族を引連れて吉野の皇居に参り、天皇に拜謁して最後の御暇乞(いとまごひ)を申し上げました。天皇は正行を近く召させられて、「親子二代の忠義、感ずるに餘りあり。」とおほめになり、「汝を深く賴みに思ふぞ。」との有難い御言葉さへ賜はりました。

正行は勇んで四条畷(なはて)に向かひました。さうして僅かの兵で大軍を引受けて花々しく戰ひましたが、其の日朝からのはげしい戰に味方は大方討死し、正行兄弟も矢きずを多く受けたので、とう/\兄弟刺しちがへて、同じ枕にたふれました。

 格言 忠臣ハ孝子ノ門ニ出ヅ


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